【読書感想文】くらしのための料理学|いつだって寄り添ってくれる
土井さんの本『一汁一菜でよいという提案』に続き、『くらしのための料理学』という本を手にとってみた
内容は『一汁一菜でよいという提案』と被っている部分もあるが、この本は「なぜ料理をする必要があるのか」「和食と他との違いはなにか」ということがより具体的に書いてあった
今回はこの本について気に入った点を3点紹介します
整えるという「料理学」について
一時期大量のお皿を洗うのが億劫になり、ワンプレートを購入して使ってみたことがあった
実際に何度か使ってみたが、同じ料理をつくっていても「美」を感じられなかったのですぐにやめてしまった
本を読んだあと、これらの行為は合理性を優先して情緒を排除しているのだと気づいた
ふつうの暮らしの和食の満足は「美」とともにあるのです。
調理を済ませ、器を選び、器に入れて(盛り付け)、お膳に並べて整えます。おかずを盛りつけた皿や、ご飯や味噌汁を装った椀を、お膳にきれいに並べることを「整える」と言います。
私は、和食においては自然をそのまま受け取るという意味において、食べられるようになったものを「整える」ということが一番大切な料理(行為)ではないかと考えています。
食べてしまえば、みな同じではないのです。
それをよしとすれば、食べ物に対する意識がぞんざいになります。食べるものが「餌」になってしまうということですね。
人間は機械ではありませんから、心の潤いが必要です。合理性を優先して情緒を排除しては、人間らしさを失うのです。食事に生まれる喜びや楽しみといった情緒を研究することが、本書の言う「料理学」です。
「整える」ことこそが一番大切な料理だと書いてあり正直驚いた
私は「美」を人間の贅沢だと勘違いしていて、季節の花を飾ることも一部の裕福な人に認められた「贅沢」であり、きれいな器を使い食事を整えることも「贅沢」であると考えていた
料理においては、その「贅沢」を買ってでもしたいと思っていたのでやっていたがそれは心の潤いを求めてやっており、それは料理であるということが分かった
朝ごはん・昼ごはんはぞんざいになりがちだが、夜ごはんは潤いを求めて毎食つくり「整える」
一日一回、「料理学」を実践しているのだと思った
和食の「おいしさ」はなにもしないこと
時々、食材をこねくり回して調理するときがある
これでもかというくらい調味料を入れるのだ
それは自分自身で無理やり「おいしさ」をつくっていたのかもしれない
そもそも料理はおいしくなければならない、それが料理をする人の役目だととんだ勘違いをしていて、勝手に重荷に感じていたのかもしれない
この本を読んで、そんな必要はないと理解できた
和食の「おいしさ」は、一期一会という瞬間の出会いです。おいしさは、心地よさを認めながらすすめる調理によって、後からついてくる結果です。
和食を食べる喜びを人為の味付けに求めてはならないということです。人間が下手に、甘く、おいしくしてしまうのは、感性をさらに鈍化させることにつながりますし、なにより、おもしろくないでしょう。
和食とは「素材を生かすもの」「なにもしないことを最善とする」と言われても違和感がないと思います。
スーパーで「安い!」と食らいついて新鮮かどうか分からない食材を購入し、こねくり回して調理をするのではなく、素材を大切にすることを意識したい
「おおよそでよし」の背中を押してくれた
毎食毎食レシピを見ながら料理なんてできない
いつだって「おおよそ」
和食はそもそも「変化」を楽しむものなのでそれでよしと肯定してくれた
そこが料理の好きなところでもある
和食の特徴は「和える」ことです。
食材の状態は、季節、鮮度などによって変化します。季節、鮮度などは前提条件を揃えることができませんから、レシピは参考程度にしかなりません。
和食において、おおよそでよしとできるのは、和食が変化そのものを楽しむものだからです。
料理をする人を肯定する本
土井さんの本を読んでいると、料理がしたくなってくる
普段の料理に対する思いが知識とともに言語化されており、さらに肯定してくれる
これからも日本特有の季節を感じ、その時季の食材を味わうことを楽しんでいきたいし、そこから「自然と共に生きてるなあ」ということを感じていきたい