【読書感想文】一汁一菜でよいという提案
コロナ禍によるリモートワークで家での食事・自炊の頻度があがった今、5年前に発売された土井善晴さんの「一汁一菜でよいという提案」を手にとってみた
存在自体は知っていたが、料理が苦手な人に向けた本だと思っていたので読んだことがなかった
しかし、読んでみて料理好きの人でも読む価値がある本だった
むしろ料理好きな人が改めて読んでおくべき本だと思った
そこに自分の中で言語化できてなかった情報・感情が記載されていて、このご時世に出会うべき本だと思ったので読書感想文を記します
見えない呪縛
毎日・毎食ご飯は「ちゃんとしたもの」であるべきだ思っていた
「ちゃんとしたもの」というのは、白米・味噌汁・メイン料理・サラダが揃っていること
私の中で味噌汁と白米・お漬物で十分だという提案は、読むまでは信じられなかった
信じられない背景には「日本食は手がこむものだ」と思っていたからだし、「ちゃんとしたもの」でないと食事の時間が虚しくなる、と思っていたからだと思う
ただ、この本を読んその考えが履き違えていることがわかった
素材を生かすには、シンプルに料理することがいちばんです。ところがこの頃は先述のように手を掛けなくてはいけない、手を掛けたものこそが料理だと思ってる人が多い
日本には少なくとも、手を掛けるもの、手を掛けないものという二つの価値があるのです
ときに分不相応でもある憧れは、場違いな場面に現れて、ハレとケを混合します。
手の掛かった暮らしに憧れ、高価なものが良いと信じて、一方で当たり前にやるべきことを嫌う。そこに矛盾と無理が起こってきます。
私はSNSなどで赤の他人のごちそう溢れる料理を見てハレとケを混合させていた
手を掛けたものこそが料理だと思っていたのだ
私の夫は、食事が一汁一菜だとしても何も文句を言わない
「今日のご飯これだけ?」とか「今日はおかず少ないね」などと一度も言われたことはない
自分で自分に「こうあるべきだ」という呪いをかけているだけだった
私以外にもそういう人はいるだろう
「夫がいると食事をちゃんとしたものにしなければならない、となんとなく思ってしまう」とよく聞く
多くの夫はそんなことあまり求めてないと思う
料理が嫌なとき、食べたくもない適当な惣菜を買い集めテーブルの上で視覚的に「おいしい」を誤魔化していた
そんなときは潔く、一汁一菜が一番おいしいのかもしれないと思った
料理をする意味
自分で料理しなくてもスーパーやコンビニで簡単に既製品が手に入る今の時代、わざわざ料理をする必要はなにかと問われると「なんとなく大事そうだから」というぐらいしか答えられなかった
本の中には「食事」は「食べる」だけのことを指すのではなく買い出しから片付けまでの一連の流れを言い、その中で心を育てると書いてあった
日頃、ご飯をたべることを「食事する」と簡単に言いますが、そもそも「食べる」ことは「食事」という営みの中にあることで、単に食べることだけが「食事」ではありません
「行動(働き)」と「食べる」の連動性がなくなれば、生きるための学習機能を失うことになり、行動して食べることが心を育てると考えれば、大いに心の発達やバランスを崩すことになってしまいます
私は買い出しから片付けまで一連の流れが、普段の仕事から気持ちを離れさせ、心を無にしてくれることを体感している
「行動」と「食べる」の連動性を以て日々心を育てているのだと理解した
一回の食事には、普段意識しているしていないに関わらず現実と情緒という大量の情報がやり取りされています。これが毎日複数回、繰り返されて、食べる人に経験として蓄積されていきます。この情緒のやりとりが子どもの情操を育てます。
食事の体験を以てアイデンティティを作り、人を幸せにする力を持つのです。
子どもに対して料理をつくり、提供することで情報がやり取りされる、それは自分の親が私にしてくれたことだった
外食をほぼしなかった我が家は畑で採れたもので食事を作り、それを私たちが食べることで”安全”、”新鮮”、”旬”といった贅沢な情報を毎日受け取っていたのだと今になって思う
白米と味噌汁は飽きない
夫が味噌汁が好きで毎食味噌汁は出すのだが、白米と味噌汁は「飽き」を知らない
何を今更、と思うかもしれないがこの本を読んで「飽きない」ということはこれまで日本人が長い間かけて培ってきた知恵であると思った
健康に暮らすことが一汁一菜であり、料理に対する抵抗感も下がる
大義名分がある筆者からの提案だ
この本を読んで食事に対する意識が変わった
食育ってこういうことなんじゃないかと思う
慎ましくありながら、食事を楽しむということを忘れないでいたい